2015年7月13日月曜日

KARA物語6 ~ 宿命のライバル「Wonder Girls」

今振り返ると、KARAがデビューした2007年という年は韓国音楽界にとって重要なターニングポイントと言っていい年であった。
かつて、2000年前後にFIN.K.L(ピンクル)やS.E.S.という韓国史上初の本格的女性アイドルグループが登場し、第一次ガールズグループブームを巻き起こしたが、以後はBoAのような女性実力派ソロ歌手が台頭するが、いわゆるアイドルユニットとしての女性グループの存在は鳴りをひそめていた。
ただ、当時韓国音楽関係者でも海外の情勢に明るい人々の間では、韓国音楽業界に女性歌手や女性ユニットの進出が まだ足りないと認識していた人は多かった。特に知日派の業界人は、エンターテイメントの価値観に類似性がある隣国~日本の動向にも驚くほど精通していた。 彼らはピンクレディー、キャンディーズも知っており、40年以上も前から日本では女性アイドルが定着していることも知っていた。
辣腕プロデューサーであるパク・ジニョンは、実に数年もの間そのような女性グループのプロデュースを計画してい た。しかも、彼の野望は大きかった。ひとつは韓国において再びガールズグループというジャンルを定着させること。そしてもう一点は、常に海外進出を意識し たグローバルな音楽性を追求することである。日本においては、1978年、当時日本では敵なしの絶頂期にあったピンクレディが満を持してアメリア進出を試 みたが、アメリカのビルボードチャートへのアジア人の進出はその厚い壁に阻まれ失敗している。パク・ジニョンの目から見ると日本人はことアイドルというジャンルに関しては、海外進出という夢想はあきらめ、国内のみを向いているように思えた。「日本人は日本人だけを相手としていればいいんだ。なぜなら、広大な日本音楽市場で成功すれば興行的には満たされるからだ」パク・ジニョンは隣国の状況をそう分析した。
「ただ、韓国は違う。韓国で成功したとしても、それに留まらず、アジアや日本、さらには欧米にまで進出できるような実力あるグループを育成したい」
パク・ジニョンの目線はアジアの音楽プロデューサーの中でも非常なる高みを向いていたのであった。

そして、パク・ジニョンはテレビ番組の公開オーディションを通じて5人の少女に白羽の矢を立てた。
「Wonder Girls」の結成である。
Wonder Girlsのメンバーはパク・ジニョン自ら妥協することなく、韓国内の国中少女たちを見て周り、ビジュアル、歌唱力、ダンス、そして何よりもエンターテイナーとしての資質を備えているかどうかで選び抜いたメンバーである。韓国のナショナルチームといってよい程の才能集団の誕生である。
そして、大手芸能事務所であるJYPエンターテインメントに所属し、半年にわたり入念なレッスンを施され徹底的に鍛え上げられる。そして2007年2月にメジャーデビューする。くしくもKARAのデビューの1ヶ月前である。

デ ビューしてまもなく、彼女たちにとっては思いもよらないメンバーたちの事故や病気に見舞われ、活動にも支障を来たす有様であった。しかしながら、彼女たち の実力は本物であり、9月に初の正規アルバム「The Wonder Years」を発表すると、ついに彼女たちの圧倒的な実力が開花する。正規アルバムのタイトル曲である「Tell me」は1980年代風の衣装コンセプトと振り付けが大衆の耳目に残る秀作となり、たちまり韓国三大音楽番組で一位を獲得すると、国内では「Tell me」のダンスやフレーズが繰り返し流されるようになり、Wonder Girlsは一躍その名を韓国中に知らしめることになった。

この時から第二次韓国ガールズグループの歴史が始まったと言っていい。
Wonder Girlsこそ、第二次韓国ガールズグループブームのパイオニアであり、その名声は未だ彼女たちの頭上に輝いている。


KARA物語5 ~ 歌姫の孤独

デビューから3ヶ月が経過した。
 すでに季節は夏に差し掛かり、韓国国内は例年にない猛暑に見舞われたが、それとは対照的にKARAのセールスは芳しくなかった。
そ の間、KARAは音楽番組や合同ライブへの出演、広告への出演と仕事をこなしていったが、いずれも単発で大衆への起爆効果は乏しかった。そのため、本来、 デビューアルバムthe First Blooooomingの活動は3ヶ月で終了する予定だったが、DSPメディアはさらにSecret Worldを第三弾としてシングルカットし、活動期間を延長した。
 韓国におけるアイドル成功の成否はデビュー直後に掛かっていると言っても過言ではない。デビュー時に可能な限り完成度の高い音楽性をアピールし、 音楽チャートの上位にいち早く食い込めば理想的である。彼ら彼女らの歌唱力やダンス、そしてその容貌や装いまでもが、辛口な音楽評論家やマスコミの論調の 対象になる。そしてそのことが大衆の評価に大きく影響する。
 一旦、大衆から失望を買うと、その評価を覆すことは極めて難しい。すなわち、最初に音楽性を評価され、音楽チャートを席巻すれば、「大物スターの出現!」、「今年の新人賞の大本命」ともてはやされ、一流アイドルへの道が一気に開けることになる。
  逆にデビュー直後、低調なパフォーマンスを披露してしまい、大衆へのアピールが不足してしまえば、そのビハインドを覆すことは容易なことではない。だか ら、韓国ではデビュー前の事務所によるレッスン準備期間が日本に比べ長期間になる。短くて2年。長ければ4年くらいにも及ぶのは、デビュー直後から完璧な パフォーマンスを求める韓国視聴者の特性に由来する。
 韓国芸能界において、逆転や挽回がいかに難しいかがわかる。
 そんな状況のなか、KARAで人一倍苦悩していたのは、リードボーカルのキム・ソンヒであった。
「いいか、ソンヒ。お前がKARAを引っ張っていくんだ」
DSPメディア社長のイ・ホヨンは、デビュー直前、ソンヒ一人を社長室に呼び、こう切り出した。イ・ホヨンは一時期苦境になった会社をその手腕で建て直しており、一見60歳を過ぎた人の良さそうな初老の紳士だが、その指導力と先見性は常人からは抜きん出ていた。
「でも、社長。KARAのリーダーはギュリです」
ソンヒの言うことは道理だ。ソンヒはKARAのリーダーではない。リーダーに指名されたのは、メンバーで最年長のパク・ギュリである。
「い や、そういう意味で言ったのではない。KARAのリーダーは確かにギュリだ。だが、メインボーカルはお前だ。お前がKARAの音楽性を決めるんだ。ステー ジ上ではお前が他のメンバーをリードするんだ。他の三人はまだ経験が浅い。お前には経験があるし、何より才能がある」
イ社長のいう経験とはソンヒが既に3年前にテレビ番組の主題歌で歌手デビューを果たしていることを指す。
ソンヒの声量豊かな歌唱力はDSPの他の練習生を圧倒しており、社長自身ソンヒがデビューするに相応しい舞台が整うまで彼女を大切に育てていた。そして、そのデビューの舞台がKARAである。
「ところで、ご家族は息災か。お母様は元気かな?」
一息つくようにイ社長は椅子から立ち上がると、話題を変えた。
「母は元気です。ただ・・・」
ソンヒは伏目がちに答える。
「まだ、ご理解いただけていないようかな?」
「はい・・・母は高校だけはきちんと卒業するようにと。出来れば、大学にも進学してほしいみたいです」
ソンヒの母は芸能界に興味のあったソンヒがDSPメディアの練習生になることを希望していた時から、娘の芸能界志望を諌めていた。
━成功するかどうかの保障もない芸能界を目指すよりも、堅実に学業で身を立ててほしい。
それが母の願いだった。
日本以上に学歴社会の韓国において、芸能界を目指すということは一種の賭けである。芸能人としてスターになれば、社会的にも認められ富貴を手に入れる。コリアンドリームを手にするのである。
しかし、もし芸能活動に挫折した場合、それまで学業を犠牲にして歌やダンスに励んだ時間と労力は何の意味もなさなくなる。そして、その時点からの学業への復帰、または芸能人以外の社会人としての再チャレンジには非常なる困難が待ち構える。
「お母様には折を見て私からもまた話をしておこう。お前は余計な心配をせずにKARAの活動に全力をあげてくれ」
社長は母親よりもまずソンヒ自身の心を確固たるものにさせるよう諭すと、話を切り上げた。
それから4ヶ月。
KARAとして無事デビューを果たしたが、音楽チャートの上位にKARAの名を連ねることは出来ていない。仕事も最初の1ヶ月はあわただしくもあったが、2ヶ月3ヶ月と過ぎると、スケジュールも空きがちになってきた。
「やっぱり、芸能界で成功するなんてそんな生易しいことではないのよ」
母の無言の声がソンヒに聞こえる。

━何としても結果を出さなければ・・・。
KARAのリードボーカルとしての責任。そしてソンヒ自身の夢が彼女の肩に重くのしかかる。

KARA物語4 ~ 失速の兆候

『The First Blooming』の発表後、KARAは精力的な活動を開始する。
テレビ番組やミュージックフェスティバル、イベン ト等に積極的に出演してパフォーマンスを披露し、KARAの名前の売り込みとアルバムのセールスを行う。デビュープロモーションでは、所属事務所のDSP メディアも潤沢とはいえないが、可能な限りの資金と人員を投入して、テレビ局をはじめとする芸能関係者に対してKARAのプロモーション活動と番組やイベ ント等への出演交渉を行う。
だが、アルバムのセールスはあまり芳しくなかった。
アルバム『The First Blooming』は発表後まもなく、韓国アルバムチャートで最高2位を記録したが、その後大衆に浸透する勢いは持続できなかった。「Breake it」に続き、2ヵ月後には「맘에 들면 (If U Wanna)」をシングルリリースしてテコ入れをはかるが、デビュー直後のプレミアムセールス期を逃し、復調の兆しが見えない状況に、DSPでもあせりの声が出始めた。

「チェさん、私たち大丈夫これからどうなるのかな?」
KARAのマネージャーであるチェに、ニコルはまだ少したどたどしい韓国語で尋ねる。

チェ・ヨンチョルは50代半ばのDSPメディアのベテランマネージャーである。
社 長のイ・ホヨンがKARAのデビューに際し、チェ・ヨンチョルの経験に期待して、特にKARAのマネージャーにと彼を就けた。メンバーたちと親子ほども年 が離れているが、彼女たちは意外なほどチェに懐いていた。寮に寄宿するメンバーたちを毎日送り迎えし、時には食事も共にする。まだ社会に出たばかりの若い KARAにとって、チェはマネージャーであり、寮長であり、社会生活の先生のような存在だった。
芸能マネージメントに30年携わってきたチェは芸能界の酸いも甘いも知り尽くしている。
DSPメディアの戦略会議でもKARAの思わしくない状況に苛立ちの声が上がるなか、セールスの継続を主張してた。
チェは、確かにKARAにとって今の事態は歓迎すべきものではないが、不思議と彼女たちの将来に楽観的だった。
KARAには人を惹きつける魅力がある。きっと、彼女たちは大衆に受け入れられる・・・

「ニコル、大丈夫だよ。KARAはまだデビューしたばかり。これからも色々なことがあるよ。だから今はしっかりと力を蓄えるんだ。君たちにはとてもすごい可能性がある。僕にはわかるんだ」
「うん、わかったわ!わたし、しっかり練習するね」
ニコルが笑顔になる。
チェからも思わず笑みがこぼれる。この笑顔があれば大丈夫。
チェは力強くうなずいた。

この間、ニコルは韓国語を勉強をしながら大学に通い、スンヨンや他のメンバーたちもそれぞれ大学に通い、学業と芸能活動を並立しする日々を過ごしながら、アルバムのプロモーション活動を継続した。

KARA物語3 ~ デビュー

DSPエンターテイメントは当初KARAをどのように売り出したかったのだろう?
 当時の話から、その戦略の一端はうかがい知ることができる。  かつて1990年代後半から2000年初頭にかけて活躍した女性ダンス系アイドルFIN.K.L(ピンクル、フィンクルともいう)という4人組が いた。FIN.K.Lは「永遠の愛」、「White」、「私の王子様に」等のヒットを連発し、韓国音楽界をリードしていた存在だった。韓国としては珍しく 大型ライブコンサートを行って成功を収めるなど、DSPエンターテイメントの看板グループになっていた。DSPエンターテイメントはそれを意識して、 KARAを第二のFIN.K.Lという触れ込みで売り出そうと考えていたらしい。前回のストリート系のファッションに身を包んだ彼女たちの写真はそのよう な戦略を意識させる。
 次に経験と歌唱力に一律の長があるキム・ソンヒをメインボーカルにして楽曲を準備した。DSPは事務所の生え抜きであり、 実績も十分あるソンヒを中心にした音楽性で、KARAを売り出そうと考えたのである。このあたりが現在の5人鼎立のKARAとは全く異なっていておもしろ い。
 そして、彼女たちはDSPの期待を背負い、2007年3月29日に韓国のケーブルテレビM.netの人気音楽番組M countdownで「Break It」でデビューを飾る。「Break It」はヒップホップ系のノリのいい曲である。脇には男性ダンスセッションを配置し、彼らと一体となって、小気味いいダンスパフォーマンスを展開する。さ らに4人が代わる代わる歌いあげるヴォーカルにはダンス系の低音にも負けずしっかり伸びている。とりわけ、ソンヒの歌唱力は力強く秀逸である。アメリカ仕 込みのニコルのダンスと英語ラップも曲にスピード感を与えている。
「みんな、よかったよ!」
 ステージパフォーマンスを終え、リーダーのギュリがメンバーみんなに声を掛ける。ケーブルテレビではあるが十分に韓国の人気音楽番組であるM countdownの収録を終え、控室に戻る彼女たちにも十分手ごたえはあった。
「緊張して何がなんだかわからなくなった!」
 スンヨンは緊張しやすいたちで、びっしょり汗をかいた顔をタオルで拭いながら張りつめた緊張感からの解放に浸っている。
「やっとこれが第一歩だね」
 ソンヒもメンバーを鼓舞する。半年も合宿所と事務所のレッスン場の往復から苦労を共にした4人の間にはいつしか共通の感情が芽生えていた。周りの評価も上々だった。デビューのステージで、KARAは実力を十分に発揮し、鮮度の高い歌唱力とダンスをステージ上で披露した。

  同時にKARAは第1集正規アルバム『The First Blooming』を発表する。韓国の歌手の音楽活動は日本とは少し異なる。アルバムの発表に合わせ、集中的にプロモーションをする。期間はおよそ3カ 月。この間に各種音楽番組等に出演し、楽曲を披露し、アルバムの宣伝をする。セールス期間が終わると、次のアルバムの準備にかかる。基本的にこのサイクル を繰り返す。
 従って、彼女たちのこの3ヶ月の活動が重要である。メンバー4人はデビューすると、基本的にオフの日も含めて合宿所で過ごし、歌とダンスのスキルの向上と、メンバー同士のチームワークの向上に努めた。
 この何の将来の保障のない芸能界で頼れるのは、自分たちの実力と結束力、そして、何より運をものにすることが重要だということは、事務所からレッスンの初歩の初歩として何度も言われていた。
 「わたしたちには運が備わっているのだろうか?」
 このことに答えられる者はもちろん誰もいない。
 だからこそ、来る日も来る日も彼女たちは自分たちに出来ること━レッスンにひたすら励むのだった。

KARA物語2 ~ 4人でのスタート

彼女たちのことを何から書き始めればいいのか?

ぼんやりと考えながら、デビュー間もない頃のKARAの写真を眺めてみる。4人が路上で仲良く並んでファインダー越しに微笑みかけている。赤と白いTシャツにダウンジャンパーに帽子をかぶっていたりして、元気なストリートダンサー少女といった感じだ。

-いい顔しているな
素直にそう思った。これから長い旅に出る前の少しの緊張とともに胸いっぱいに夢を抱いている彼女たちの初々しい表情に、いまさらながら時間軸を越えて頑張れとエールを送りたくなるような写真だった。
メンバーは今の5人組のKARAとは異なる。
写真には左から順番に、ハン・スンヨン、ニコル、パク・ギュリ、そして今はもうKARAにいないキム・ソンヒの4人組である。現メンバーであるク・ハラとカン・ジヨンはこのときまだKARAのメンバーではなかった。


彼女たちの最初の出会いはどのようなものだったのか?
詳しいことはよくわからない。ただ、概ね次のような記録が残っている。

メンバーで最も幼い顔立ちが印象のハン・スンヨンは、1988724日にソウルで生まれた。幼いころから何度か子役でドラマに出演しており、その頃から芸能界には興味があったようだ。中学2年生から高校1年生の間にアメリカのニューヨークとニュージャージーに留学していたが、帰国後にとあるダンススクールに通い、そこで芸能関係者に誘われ、現所属事務所であるDSPメディアのオーディションを受け、KARAのメンバーになった。
若いこともあり、スンヨンはこれからのKARAでの芸能活動に大いに夢を膨らませていた。

初期メンバーで最年少のニコルは、元々韓国ではなくアメリカで生まれている。1991107日にロサンゼルス郊外のグレンデール市で10代の前半を過ごた。中学生の時からダンスに親しみ、来る日も来る日も踊っていたという。
従って当然その頃から芸能活動には興味があったようだが、15歳のときにいよいよ両親の母国である韓国の芸能オーディションを受け、その結果、両親の生まれ故郷である韓国に渡ってきた。
来韓時、英語が母国語のニコルは、韓国語があまり流暢に話せなかった。しかしながら、アメリカ仕込の飾らない人付き合いと持ち前の明るい性格で、言葉さえ何とかなれば、メンバーとはうまくやっていけそうな感じだった。

パク・ギュリの母は韓国では有名な声優であるパク・ソヒョンであった。従って、幼い時から映画やアニメに興味を持ち、自然と芸能にも興味があったようだ。元々は別の事務所に所属していたが、そこでのデビューが流れたためにDSPメディアのオーディションを受けてKARAに合流した。生まれは1988521日であり、メンバー中最年長だったため(韓国は年齢による序列の概念がしっかりしており、グループでの最年長者がグループを取りまとめるの自然である)、KARAのリーダーになった。ただ、結果的にそれが今日のKARAにとっても適任だったようである。当時からギュリは仕事に対して極めて真摯に取り組み、リーダーという職務に対して誠意をもって取り組んでくれそうだった。
そんななか、スンヨンと初めて会ったときのギュリの回顧話がおもしろい。
ギュ リは初めてスンヨンに会ったとき、スンヨンの幼い顔立ちに中学生かと思った。スンヨンは初対面のギュリに会うと人懐っこそうな笑顔を浮かべならがギュリの 手を取り、「よろしくね。今日から友達だよ」と話かけた。実は同い年のふたりだが、このときギュリはスンヨンが自分より年下だと思い「礼儀の知らない子ど もなのかな」と困惑した。
無邪気なスンヨンと人や物事に対する距離感を冷静に保っているしっかりもののギュリを象徴するやりとりが微笑ましい。

最後にキム・ソンヒである。
ソンヒは現メンバーではないので知らない人も多いと思うが、彼女はDSPメディアの練習生からの生え抜きで。中学生のときからイ・ヒョリのドラマの主題歌を歌うなどして、その歌唱力には定評があった。年齢は1989517日生まれの当時17歳だったが、DSPメディアは早くからソンヒに期待していて、彼女をKARAのメインボーカルとして売り出していこうと考えていたようだった。
なるほど、先ほどの写真に戻り4人全員を見てみると、ソンヒの端正な顔だちに最初に目が行く。目元がきりりとして特徴がある。デビュー前からの芸能活動の蓄積が他のメンバーよりも抜きん出ていたことから来るオーラのようなものも感じられる。


この写真を見ると、まだ何も先は見えないが、それでも大いなる期待と夢に思いを馳せる彼女たちの初々しい表情に惹かれるのである。

KARA物語1 ~ プロローグ

 ユー ラシア大陸の東の果て~その先端の朝鮮半島に暮らす人々は、その地政学的なポジションから、相次ぐ戦争と侵略により長らく苦難の歴史を歩んできた。そし て、民族を分断した朝鮮戦争で荒廃した国土の中から、少しずつであるが荒地を耕し、町を修復していった。彼らはその時、鍬を振りかざしながら古くから伝わ る朝鮮民謡を口ずさんでいた。そして、ふたたび世界に平和が訪れ、オリンピックを迎えいれるまで復興した韓国は奇跡的な経済発展を遂げ、町が摩天楼になる とき、歌とダンス~エンターテイメント~が彼らの発展の原動力となった。
 1990年代後半、韓国音楽界は熾烈な主導権争いが繰り広げられていた。
  実に世界から10年も遅れているといわれていた韓国音楽界は経済発展と同じように奇跡的な躍進をし始める。SMエンターテイメントは韓国史上初めての本格 的女性アイドルグループS.E.S.を世に送り出す。DSP社もそれに続くようにFIN.K.LEを世に送り出し、韓国に初めてルックスと歌とダンスを融 合したアイドルという存在が出現した。SMエンターテイメントはその後もBoaや東方神起を送り出し、韓国音楽界の覇権を握り、日本にまで進出する。一方 DSPは長く停滞の時期を迎えたあと、一芸能事務所へと停滞した。だが、そのような国内での相互作用は韓国音楽を世界のトップレベルまでに引き上げ、それ までアジア音楽界の盟主であった日本に匹敵するまでに、作詞作曲の技術から歌手のマネージメント手法まで、その実力は周知のとおり、現在アジア各国にまで 輸出されるほどに成長した。
 かつて、S.E.S.やFIN.K.LEに接した韓国の子どもたちは、華やかな音楽とエンターテイメントに焦がれるように夢を抱き、芸能界の扉を叩いた。そんな子どもたちのなかにこの物語の主役であるKARA の5人の少女たちはいた。

 パク・ギュリ
 ハン・スンヨン
 チョン・ニコル
 ク・ハラ
 カン・ジヨン 

 これから書く物語は「音楽を通じて喜びを与えたい」という気持ちが込められたKARAという名前を背負った少女たちの夢と、その夢に自分をたちを重ね合わせ、国籍を超えて応援してきた多くの人たちの物語である。 
 そして、今も夢は続いている・・・