2017年11月26日日曜日

人類が生き残る方法について(1)

現代科学の発達により、今から約40億年後には太陽の寿命が尽きることが明白になっている。

もう少し詳しく言うと(細かい年限については諸説あるのでご容赦いただきたい)、今から約20億年後から徐々に太陽は温度を増しながら少しづつ膨張し始める。
膨張のスケールは太陽という巨大な天体のスケールメリットからすると微々たるものであるが、その外環にある地球にとっては致命的な変化である。年に0.001%レベルの温度上昇でも1000年単位で考えれば格段の上昇であり、やがて海は面積を縮小し気化してしまう。
正確には判らないが、約25億年後には地球表面温度は100度にもなり、人間が戸外で生きることは不可能になる。

そう考えると、人類が生き残るための方策を見つける期限はあと20億年くらいと考えられる。
物理的には太陽が赤色矮星化し、地球軌道まで膨張するまでの40億年後が期限だが、地球環境が人間の住めない状態になることをデッドラインと見なすのなら、刻限は20億年後である。
それが厳然と突きつけられた我々人類に対しての回答猶予期限である。
この回答を出せないとするなら、人類は灼熱の中にただ個体数を減らし続け、やがて滅びる。

それが長いのか短いのかは判らないが、私も人類の一員として生きた証として、自分の考察をここに書き記したいと思う。
全くの科学の素人であるが、概念として方向性として、人類が生きのびる方法について提言したいと思う。

2017年6月24日土曜日

人生ってそれほど悪いものではない

小林麻央さんが、昨日亡くなりました。

彼女が昨年の9月からブログを開始したときからの読者です。
そのときから彼女の思いや生活を垣間見て、思いを共有してきました。

昨年、手術が成功したときには喜びそして安堵し
子どもたちの運動会に参加できたときの嬉しそうな写真を見て、こちらも笑顔になれました。

年が明けて、徐々に彼女の体調が悪くなり、痛みや不安、苦しみが訪れてくると、彼女は素直にその苦しみを吐露します。
「辛いです。不安です。」と、そしてお母さんの胸で泣きます。

最後は自宅療養に切り替えます。毎日痛みと戦いながらも、僅かに訪れる平穏なときを捉えて笑顔の写真を届けてくれました。

そうして彼女は人生を全うして旅立ちました。
時に弱気になって泣き虫な彼女でしたが、それも人間。人生ってうまくいかないものです。

この10ヶ月間私は彼女の発信する思いを読んで、その愛のしずくを確かに受け取りました。
訪れる人も少ないこの場ですが、あらためて彼女に感謝したいと思います。

人生ってそれほど悪いものではないですね。
人間ってそれほど悪いものではないですね。

麻央さんがどうもありがとう。

2017年5月30日火曜日

小林麻央さん



小林麻央さんを見ていて、病に勝つことの意味を教えられたような気がします。

「病に勝つ」とは決して病気を完治させるということではなく、病による苦しみや恐怖を受容してなお、自分らしく生きぬく心を持つということなのかと思います。

痛みや苦しみはあるかもしれませんが、それよりも大切なもの・・・・家族や愛情、生きる意味を追及する心を持つことにより、人間としての一段も二段も尊いステージに上がれるのだと思います。

彼女の家に戻ったときのブログです。

何と素敵な笑顔でしょうか。
私は涙が止まりませんでした。
この笑顔が病に勝った人の笑顔だと思います。

いつか私も死を迎えるとき彼女のような笑顔で死んでいきたい。

2017年4月4日火曜日

故郷を思う

故郷から離れて20数年になりますが、やはり故郷とは心の原風景として今でも心に焼き付いています。

子どもころ、夕焼けに向かいどこまでも自転車で走った道のり。
広い大地に伸びる長い影。
見渡せど見渡せどどこまでも続く地平線。

初秋の北の大地の凛とした空気が今の自分を育んでくれた。
厳しくも優しい空と土と雪。

あの時、一緒に自転車を並べた君は今いずこに。

いつでも帰ることはできるが、もう戻ることはない我が故郷。
愛しいかな。

2017年1月4日水曜日

今年は頑張ります

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
心機一転。
今年は心を鍛える年にしたいと思います。

身体も鍛錬が必要なように心も鍛錬が必要です。
心の達人はなかなか世間には少ないようです。
私が今私事している(勝手にですが)大愚元勝和尚などはまさに心の達人ですね。

私も心を鍛えること、そしてCMNSを治します!

2016年9月22日木曜日

木南晴夏さん!!

TBSドラマ「せいせいするほど愛している」

巷でも色々話題になりましたが、
個人的に、、、、主人公の武井咲のライバル妻である木南晴夏さんの名演技に感動しました。
今まで知りませんでしたが、いい女優さんだと思います。
彼女の演技なくしてこのドラマの成功はなかったと思います

これからどんどん活躍してください。
木南晴夏さん、応援しています! 



https://twitter.com/kinamiharuka

2015年7月13日月曜日

KARA物語6 ~ 宿命のライバル「Wonder Girls」

今振り返ると、KARAがデビューした2007年という年は韓国音楽界にとって重要なターニングポイントと言っていい年であった。
かつて、2000年前後にFIN.K.L(ピンクル)やS.E.S.という韓国史上初の本格的女性アイドルグループが登場し、第一次ガールズグループブームを巻き起こしたが、以後はBoAのような女性実力派ソロ歌手が台頭するが、いわゆるアイドルユニットとしての女性グループの存在は鳴りをひそめていた。
ただ、当時韓国音楽関係者でも海外の情勢に明るい人々の間では、韓国音楽業界に女性歌手や女性ユニットの進出が まだ足りないと認識していた人は多かった。特に知日派の業界人は、エンターテイメントの価値観に類似性がある隣国~日本の動向にも驚くほど精通していた。 彼らはピンクレディー、キャンディーズも知っており、40年以上も前から日本では女性アイドルが定着していることも知っていた。
辣腕プロデューサーであるパク・ジニョンは、実に数年もの間そのような女性グループのプロデュースを計画してい た。しかも、彼の野望は大きかった。ひとつは韓国において再びガールズグループというジャンルを定着させること。そしてもう一点は、常に海外進出を意識し たグローバルな音楽性を追求することである。日本においては、1978年、当時日本では敵なしの絶頂期にあったピンクレディが満を持してアメリア進出を試 みたが、アメリカのビルボードチャートへのアジア人の進出はその厚い壁に阻まれ失敗している。パク・ジニョンの目から見ると日本人はことアイドルというジャンルに関しては、海外進出という夢想はあきらめ、国内のみを向いているように思えた。「日本人は日本人だけを相手としていればいいんだ。なぜなら、広大な日本音楽市場で成功すれば興行的には満たされるからだ」パク・ジニョンは隣国の状況をそう分析した。
「ただ、韓国は違う。韓国で成功したとしても、それに留まらず、アジアや日本、さらには欧米にまで進出できるような実力あるグループを育成したい」
パク・ジニョンの目線はアジアの音楽プロデューサーの中でも非常なる高みを向いていたのであった。

そして、パク・ジニョンはテレビ番組の公開オーディションを通じて5人の少女に白羽の矢を立てた。
「Wonder Girls」の結成である。
Wonder Girlsのメンバーはパク・ジニョン自ら妥協することなく、韓国内の国中少女たちを見て周り、ビジュアル、歌唱力、ダンス、そして何よりもエンターテイナーとしての資質を備えているかどうかで選び抜いたメンバーである。韓国のナショナルチームといってよい程の才能集団の誕生である。
そして、大手芸能事務所であるJYPエンターテインメントに所属し、半年にわたり入念なレッスンを施され徹底的に鍛え上げられる。そして2007年2月にメジャーデビューする。くしくもKARAのデビューの1ヶ月前である。

デ ビューしてまもなく、彼女たちにとっては思いもよらないメンバーたちの事故や病気に見舞われ、活動にも支障を来たす有様であった。しかしながら、彼女たち の実力は本物であり、9月に初の正規アルバム「The Wonder Years」を発表すると、ついに彼女たちの圧倒的な実力が開花する。正規アルバムのタイトル曲である「Tell me」は1980年代風の衣装コンセプトと振り付けが大衆の耳目に残る秀作となり、たちまり韓国三大音楽番組で一位を獲得すると、国内では「Tell me」のダンスやフレーズが繰り返し流されるようになり、Wonder Girlsは一躍その名を韓国中に知らしめることになった。

この時から第二次韓国ガールズグループの歴史が始まったと言っていい。
Wonder Girlsこそ、第二次韓国ガールズグループブームのパイオニアであり、その名声は未だ彼女たちの頭上に輝いている。