2017年6月24日土曜日

人生ってそれほど悪いものではない

小林麻央さんが、昨日亡くなりました。

彼女が昨年の9月からブログを開始したときからの読者です。
そのときから彼女の思いや生活を垣間見て、思いを共有してきました。

昨年、手術が成功したときには喜びそして安堵し
子どもたちの運動会に参加できたときの嬉しそうな写真を見て、こちらも笑顔になれました。

年が明けて、徐々に彼女の体調が悪くなり、痛みや不安、苦しみが訪れてくると、彼女は素直にその苦しみを吐露します。
「辛いです。不安です。」と、そしてお母さんの胸で泣きます。

最後は自宅療養に切り替えます。毎日痛みと戦いながらも、僅かに訪れる平穏なときを捉えて笑顔の写真を届けてくれました。

そうして彼女は人生を全うして旅立ちました。
時に弱気になって泣き虫な彼女でしたが、それも人間。人生ってうまくいかないものです。

この10ヶ月間私は彼女の発信する思いを読んで、その愛のしずくを確かに受け取りました。
訪れる人も少ないこの場ですが、あらためて彼女に感謝したいと思います。

人生ってそれほど悪いものではないですね。
人間ってそれほど悪いものではないですね。

麻央さんがどうもありがとう。

2017年5月30日火曜日

小林麻央さん



小林麻央さんを見ていて、病に勝つことの意味を教えられたような気がします。

「病に勝つ」とは決して病気を完治させるということではなく、病による苦しみや恐怖を受容してなお、自分らしく生きぬく心を持つということなのかと思います。

痛みや苦しみはあるかもしれませんが、それよりも大切なもの・・・・家族や愛情、生きる意味を追及する心を持つことにより、人間としての一段も二段も尊いステージに上がれるのだと思います。

彼女の家に戻ったときのブログです。

何と素敵な笑顔でしょうか。
私は涙が止まりませんでした。
この笑顔が病に勝った人の笑顔だと思います。

いつか私も死を迎えるとき彼女のような笑顔で死んでいきたい。

2017年4月4日火曜日

故郷を思う

故郷から離れて20数年になりますが、やはり故郷とは心の原風景として今でも心に焼き付いています。

子どもころ、夕焼けに向かいどこまでも自転車で走った道のり。
広い大地に伸びる長い影。
見渡せど見渡せどどこまでも続く地平線。

初秋の北の大地の凛とした空気が今の自分を育んでくれた。
厳しくも優しい空と土と雪。

あの時、一緒に自転車を並べた君は今いずこに。

いつでも帰ることはできるが、もう戻ることはない我が故郷。
愛しいかな。

2017年1月4日水曜日

今年は頑張ります

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
心機一転。
今年は心を鍛える年にしたいと思います。

身体も鍛錬が必要なように心も鍛錬が必要です。
心の達人はなかなか世間には少ないようです。
私が今私事している(勝手にですが)大愚元勝和尚などはまさに心の達人ですね。

私も心を鍛えること、そしてCMNSを治します!

2016年9月22日木曜日

木南晴夏さん!!

TBSドラマ「せいせいするほど愛している」

巷でも色々話題になりましたが、
個人的に、、、、主人公の武井咲のライバル妻である木南晴夏さんの名演技に感動しました。
今まで知りませんでしたが、いい女優さんだと思います。
彼女の演技なくしてこのドラマの成功はなかったと思います

これからどんどん活躍してください。
木南晴夏さん、応援しています! 



https://twitter.com/kinamiharuka

2015年7月13日月曜日

KARA物語6 ~ 宿命のライバル「Wonder Girls」

今振り返ると、KARAがデビューした2007年という年は韓国音楽界にとって重要なターニングポイントと言っていい年であった。
かつて、2000年前後にFIN.K.L(ピンクル)やS.E.S.という韓国史上初の本格的女性アイドルグループが登場し、第一次ガールズグループブームを巻き起こしたが、以後はBoAのような女性実力派ソロ歌手が台頭するが、いわゆるアイドルユニットとしての女性グループの存在は鳴りをひそめていた。
ただ、当時韓国音楽関係者でも海外の情勢に明るい人々の間では、韓国音楽業界に女性歌手や女性ユニットの進出が まだ足りないと認識していた人は多かった。特に知日派の業界人は、エンターテイメントの価値観に類似性がある隣国~日本の動向にも驚くほど精通していた。 彼らはピンクレディー、キャンディーズも知っており、40年以上も前から日本では女性アイドルが定着していることも知っていた。
辣腕プロデューサーであるパク・ジニョンは、実に数年もの間そのような女性グループのプロデュースを計画してい た。しかも、彼の野望は大きかった。ひとつは韓国において再びガールズグループというジャンルを定着させること。そしてもう一点は、常に海外進出を意識し たグローバルな音楽性を追求することである。日本においては、1978年、当時日本では敵なしの絶頂期にあったピンクレディが満を持してアメリア進出を試 みたが、アメリカのビルボードチャートへのアジア人の進出はその厚い壁に阻まれ失敗している。パク・ジニョンの目から見ると日本人はことアイドルというジャンルに関しては、海外進出という夢想はあきらめ、国内のみを向いているように思えた。「日本人は日本人だけを相手としていればいいんだ。なぜなら、広大な日本音楽市場で成功すれば興行的には満たされるからだ」パク・ジニョンは隣国の状況をそう分析した。
「ただ、韓国は違う。韓国で成功したとしても、それに留まらず、アジアや日本、さらには欧米にまで進出できるような実力あるグループを育成したい」
パク・ジニョンの目線はアジアの音楽プロデューサーの中でも非常なる高みを向いていたのであった。

そして、パク・ジニョンはテレビ番組の公開オーディションを通じて5人の少女に白羽の矢を立てた。
「Wonder Girls」の結成である。
Wonder Girlsのメンバーはパク・ジニョン自ら妥協することなく、韓国内の国中少女たちを見て周り、ビジュアル、歌唱力、ダンス、そして何よりもエンターテイナーとしての資質を備えているかどうかで選び抜いたメンバーである。韓国のナショナルチームといってよい程の才能集団の誕生である。
そして、大手芸能事務所であるJYPエンターテインメントに所属し、半年にわたり入念なレッスンを施され徹底的に鍛え上げられる。そして2007年2月にメジャーデビューする。くしくもKARAのデビューの1ヶ月前である。

デ ビューしてまもなく、彼女たちにとっては思いもよらないメンバーたちの事故や病気に見舞われ、活動にも支障を来たす有様であった。しかしながら、彼女たち の実力は本物であり、9月に初の正規アルバム「The Wonder Years」を発表すると、ついに彼女たちの圧倒的な実力が開花する。正規アルバムのタイトル曲である「Tell me」は1980年代風の衣装コンセプトと振り付けが大衆の耳目に残る秀作となり、たちまり韓国三大音楽番組で一位を獲得すると、国内では「Tell me」のダンスやフレーズが繰り返し流されるようになり、Wonder Girlsは一躍その名を韓国中に知らしめることになった。

この時から第二次韓国ガールズグループの歴史が始まったと言っていい。
Wonder Girlsこそ、第二次韓国ガールズグループブームのパイオニアであり、その名声は未だ彼女たちの頭上に輝いている。


KARA物語5 ~ 歌姫の孤独

デビューから3ヶ月が経過した。
 すでに季節は夏に差し掛かり、韓国国内は例年にない猛暑に見舞われたが、それとは対照的にKARAのセールスは芳しくなかった。
そ の間、KARAは音楽番組や合同ライブへの出演、広告への出演と仕事をこなしていったが、いずれも単発で大衆への起爆効果は乏しかった。そのため、本来、 デビューアルバムthe First Blooooomingの活動は3ヶ月で終了する予定だったが、DSPメディアはさらにSecret Worldを第三弾としてシングルカットし、活動期間を延長した。
 韓国におけるアイドル成功の成否はデビュー直後に掛かっていると言っても過言ではない。デビュー時に可能な限り完成度の高い音楽性をアピールし、 音楽チャートの上位にいち早く食い込めば理想的である。彼ら彼女らの歌唱力やダンス、そしてその容貌や装いまでもが、辛口な音楽評論家やマスコミの論調の 対象になる。そしてそのことが大衆の評価に大きく影響する。
 一旦、大衆から失望を買うと、その評価を覆すことは極めて難しい。すなわち、最初に音楽性を評価され、音楽チャートを席巻すれば、「大物スターの出現!」、「今年の新人賞の大本命」ともてはやされ、一流アイドルへの道が一気に開けることになる。
  逆にデビュー直後、低調なパフォーマンスを披露してしまい、大衆へのアピールが不足してしまえば、そのビハインドを覆すことは容易なことではない。だか ら、韓国ではデビュー前の事務所によるレッスン準備期間が日本に比べ長期間になる。短くて2年。長ければ4年くらいにも及ぶのは、デビュー直後から完璧な パフォーマンスを求める韓国視聴者の特性に由来する。
 韓国芸能界において、逆転や挽回がいかに難しいかがわかる。
 そんな状況のなか、KARAで人一倍苦悩していたのは、リードボーカルのキム・ソンヒであった。
「いいか、ソンヒ。お前がKARAを引っ張っていくんだ」
DSPメディア社長のイ・ホヨンは、デビュー直前、ソンヒ一人を社長室に呼び、こう切り出した。イ・ホヨンは一時期苦境になった会社をその手腕で建て直しており、一見60歳を過ぎた人の良さそうな初老の紳士だが、その指導力と先見性は常人からは抜きん出ていた。
「でも、社長。KARAのリーダーはギュリです」
ソンヒの言うことは道理だ。ソンヒはKARAのリーダーではない。リーダーに指名されたのは、メンバーで最年長のパク・ギュリである。
「い や、そういう意味で言ったのではない。KARAのリーダーは確かにギュリだ。だが、メインボーカルはお前だ。お前がKARAの音楽性を決めるんだ。ステー ジ上ではお前が他のメンバーをリードするんだ。他の三人はまだ経験が浅い。お前には経験があるし、何より才能がある」
イ社長のいう経験とはソンヒが既に3年前にテレビ番組の主題歌で歌手デビューを果たしていることを指す。
ソンヒの声量豊かな歌唱力はDSPの他の練習生を圧倒しており、社長自身ソンヒがデビューするに相応しい舞台が整うまで彼女を大切に育てていた。そして、そのデビューの舞台がKARAである。
「ところで、ご家族は息災か。お母様は元気かな?」
一息つくようにイ社長は椅子から立ち上がると、話題を変えた。
「母は元気です。ただ・・・」
ソンヒは伏目がちに答える。
「まだ、ご理解いただけていないようかな?」
「はい・・・母は高校だけはきちんと卒業するようにと。出来れば、大学にも進学してほしいみたいです」
ソンヒの母は芸能界に興味のあったソンヒがDSPメディアの練習生になることを希望していた時から、娘の芸能界志望を諌めていた。
━成功するかどうかの保障もない芸能界を目指すよりも、堅実に学業で身を立ててほしい。
それが母の願いだった。
日本以上に学歴社会の韓国において、芸能界を目指すということは一種の賭けである。芸能人としてスターになれば、社会的にも認められ富貴を手に入れる。コリアンドリームを手にするのである。
しかし、もし芸能活動に挫折した場合、それまで学業を犠牲にして歌やダンスに励んだ時間と労力は何の意味もなさなくなる。そして、その時点からの学業への復帰、または芸能人以外の社会人としての再チャレンジには非常なる困難が待ち構える。
「お母様には折を見て私からもまた話をしておこう。お前は余計な心配をせずにKARAの活動に全力をあげてくれ」
社長は母親よりもまずソンヒ自身の心を確固たるものにさせるよう諭すと、話を切り上げた。
それから4ヶ月。
KARAとして無事デビューを果たしたが、音楽チャートの上位にKARAの名を連ねることは出来ていない。仕事も最初の1ヶ月はあわただしくもあったが、2ヶ月3ヶ月と過ぎると、スケジュールも空きがちになってきた。
「やっぱり、芸能界で成功するなんてそんな生易しいことではないのよ」
母の無言の声がソンヒに聞こえる。

━何としても結果を出さなければ・・・。
KARAのリードボーカルとしての責任。そしてソンヒ自身の夢が彼女の肩に重くのしかかる。